夏の終わり、『夏物語』を読む。

 

 

八月末日、名古屋の名駅西口にある『cafeロジウラのマタハリ春光乍洩』で開かれた、川上未映子『夏物語』(文藝春秋)の読書会に参加した。

平日の仕事後、名古屋へ出かけることは、あまり体力のない自分にとっては冒険だったが(いつもなら台所でぐんにゃりしてる)、開催を知ったときから、どうしても参加したかった。

開催日を見て、未映子さんの誕生日前日だ! と思った。八年程まえから、わたしは未映子さんのファンで、作品もすべて読んでいる。

岐阜県内のある大学で行われた未映子さんの講演会に、ミーハーな気持ちで参加したことがきっかけだった。ご本人に質問できる機会もあって(どうしたら小説家になれますかという質問をした)、お人柄も作品も大好きになり、一時はアイドル視してしまっていたくらい、あこがれの存在である。

しかも、司会は知人である『リチル』さんで、アジアのごはん好きとしても『ロジウラのマタハリ』さんは、ずっと行ってみたかったお店であった。

保育園のお迎えを夫に頼みこみ(園の閉所時間に間に合ってくれるよう念をおしたり)、『夏物語』は初出の「文學界」で読了していたが、単行本でもういちど読み、読みなおしたかった『乳と卵』や未映子さんのインタビューが載った雑誌など(『文學界』八月号の岸政彦『川上未映子にゆうたりたい』には泣いた……)を、夜な夜な読むなどして準備はぎりぎり、寝不足気味で当日を迎えたのだった。

おそらく、今年いちばん喋ったのでは?という夜になった。

基本は本の話をゆるりとする読書会だが、いつもは読みの「ただしさ」というのか、それを答えあわせするような感覚が少しでもないことはなくて、もごもごしてしまうことがあったけれど(喋るのもあまり得意ではないのだ)、この日はそういったことが全然なかったな、と思う。

それは課題本が『夏物語』だったから、だろう。もちろん、自分の好きなひとについて話していたからでも、あるだろうし。

原稿用紙にして千枚という本作はとても濃密だ。第一部は芥川賞を受賞した『乳と卵』の語り直しになっており、主人公はその語り手であった夏子だ。それから十年後を描く第二部では、パートナーとの性行為なしで、「自分の子どもに会いたい」と願う彼女が描かれる。『乳と卵』で夏子の姪、十一歳の緑子が抱いていた、〈人間は、卵子と精子、みんながもうそれを、あわせることをやめたらええ〉という思いが萌芽となって、ひとはなぜ生み、生まれてくるのか?を、『夏物語』は問う。

本書でその答えはでない。わたしには子どもがひとりいるが、なぜ子どもを生んだのか?は、本書を読むまえから、たびたび考えては、答えがでないことでもあった(過去のブログでも、すこし言及している)。妊娠・育児ノンフィクション『きみは赤ちゃん』を読み、泣きながら育児をしていたが(めちゃめちゃ参考になり、なくてはならない一冊だった)、どこかそこに、動機や理由をさがしている自分もいた。なかなか答えはでないから、だれかと対話をしたいと思ったのだ。

読書会ではまず、自己紹介の代わりに各自、『夏物語』のなかから好きな一文を朗読した。だれも被ることがなくて、それがとても面白いと思った。会の発起人であり、未映子さんと親交のある『ロジウラのマタハリ』店主のりりこさんと、ご友人による朗読がほんとうに凄かった。思い出しても、ああ、もういちど聞けたら……となる。わたしは以前、このブログでも感銘を受けたと書いたことのある、冒頭文を朗読した。

初期エッセイ『そら頭はでかいです、世界がすこんと入ります』でも書かれているとおり、未映子さんは貧困を生きぬいたひとだ。じしんの体験が透けてみえるような、本書の貧困にまつわる描写も、とても気になるところだった。ただ辛い、苦しいだけではなく、ユーモアをまじえて書かれているが、それでも貧困はたしかにあること。それが自分にとって、身近な問題に思える。

そして、わたしは全編に貫かれる、切実さのようなものに、どうしても惹かれる。すべての女性から発せられる声の、切実さ。どの女性の言い分も、理解できるというか、選んだ道によっては自分もそうだったという、可能性を感じられるというか。なかでも、とりわけ自分に響いたのは、なぜ生むのか?という問いにたいする、夏子のある返答だ。それは答えには、なっていないのかもしれない。それでも、わたしもそうかもしれない、その返答にある選択をして、いまの自分があるのかもしれないと、思ったのだった。

終わりのない対話を、まだまだしていたい。読書会で出会ったみなさま、ほんとうにありがとうございました。

✳︎✳︎✳︎

そういえば、この日がとても楽しくて、自分でも読書会を開いてみたいという気持ちがめばえたのだが、月日が経つにつれて、萎れてきてしまっている。好きな本を、好きと思うひと同士でひそやかに話すことができれば……と思っているが、どうしたものだろうか。このとき、ハン・ガンかルシア・ベルリンでできたら、というところまで夢想していたが、ルシア・ベルリンはいまだ読んでいる途中である。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です