猫も子どもも一緒だと、思いたい

猫も子どもも一緒だと、思いたい。去る8月26日、名古屋で開かれた、保坂和志さんのトークイベントに参加したとき、思ったことだ。太宰治『桜桃』〈子どもより親が大事と、思いたい〉の、真似やけど。猫は保坂さんの大事。わたしは猫より子どもが大事と思ってしまった結果、冒頭の写真の猫はいなくなってしまった。それは一緒だった、といまさら気づいた。

保坂さんは15年間、餌をやっているけれど触らせてくれない(!)、白猫のシロちゃんを外で飼っているという。そのことをNHKで放送していた「ネコメンタリー」というテレビ番組で知り、どうしても写真に写る子、クルちゃんを思いださずには、いられなかった。といってもシロちゃんとの共通項は、体が白いというだけで、クルちゃんは人なつっこく、めちゃくちゃ触らせてくれた。しっぽがくるりと曲がっているから、名前はクルビ。わたしの妊娠前から数年間、わが家に通ってくれていた彼女は、保坂さん言うところの外猫だった。あーちゃんが産まれて1年ほど、餌を外にだしてはいるものの、まったく構うことができなくなり、クルちゃんはやがて姿を現さなくなった。

昨日、友人ファミリーの営む店に子猫が侵入し、飼うことになったという報せをSNSでみて、うらやましいなぁと思う。夫からは娘が小学校を入学するまで、飼うのは無理だといわれているが(わたしの性格上)、ほんとうは猫が飼いたい。

イベントのことを思い出そう。どこまで思い出せるか、わからないけれど。あつい一日だった。会場であるカフェに到着し、サーモンピンクのアロハ、クリーム色っぽい白いパンツという姿の保坂さんの後ろを通って、飲み物を注文しにいくとき、「ほ、本物」と、身体が緊張でふるえた。

ネコメンタリーを観ていて心がぎゅうとなった場面がある。ディレクターと思わしき女性が、「こんなこと聞かれるのは嫌だと思うんですけど」と心苦しそうに前置きしてから、「保坂さんにとって猫とは何ですか?」と質問する場面。保坂さんの答えはとてもすてきで何だかほっとしたのだけど、こういう類の質問は、自分の属していた小さな地方のマスコミのなかでもあったことを(したくなくてもしなければいけないみたいな)、思い出したからだった。

イベントでも、こういった質問が社会では前提となっているという、言及があった。目の前にいるひとの好きなものを尊重したい(尊重してないから、その質問になる)。自信があること、主体性があることが前提になってるのって、どうなのだろう。ものを作るひとにとって、それは違うのではないか。目標とか、文学賞を受賞するとか。

そうじゃないと、仰ぎ見る存在に到達できない、というところで、わたしは泣いた。仰ぎ見る存在がいるからこそ、わたしはまがりなりにも、文章が書きたいと思ってしまうのだった。書きたくなってしまうから、よくわからない日記を書いて、気づけば時間が過ぎ去ってしまう毎日でも、べつにいいかと思えた。

日常、身辺雑記が宇宙に近いという話が好きだ。おととい、という言葉を使うときは近い感じがするが、実際は遠い、という話も面白かったな(保坂さんはおとといの晩ご飯が思い出せないと言っていた。そのときのわたしは思い出せた)。保坂さんはご自身を中学生男子のノリがある、とおっしゃっていた。文体の変化についても、自分にとって興味ぶかかった。

イベント後には懇親会があったのだけど、わたしはなんと、保坂さんの隣に座っていた。でも、質問をすることもできず、ほんとうに隣にいただけ。緊張と、ガチなファンである皆さんを前にして、完全に萎縮していた…。わたし、あほ面してたんやないかな、と回想する。猫のお話とか、ふつうにできたら、よかったな。保坂さんの小説で人生が変わったというひとが、多く参加していたと思う。自分はそこまでじゃないのでは(どちらかというとミーハー寄り)という、へんな負い目があったけど、『書きあぐねている人のための小説入門』を読んだあと、掌編だけれど小説を書きあげることができ、受賞もできたのだから、じゅうぶん人生が変わっているではないか。いまさら気づく。

この日は、カルチャースクールで知り合った、同志のIくんも参加していて、久しぶりに会えた(1年ぶりくらいに、でも時間が経つのが早すぎて、久しぶりという気はあまりしない)ことも、嬉しかった。本や文章に向かうことの基本はひとりだけど、こういった話ができる友人が、少なくてもいることが嬉しい。しかし、飲もうにも日曜だからか、笑えるくらい、どこの店もやっていなかった。サイゼリヤでイベントの感想などを話し、文筆がんばろうぜ、と言い合って別れた。

(Tumblrより転載)