窓をあける

窓をあけはなち掃除しても苦じゃない季節がやってきた。春だ。

あけていたのは自室の窓だが、あけたのが初めてなのではと思うくらい、あけたときの記憶がなかった。だって網戸がついてないのだ。もう何年もまえ、アパートの外壁が塗りなおされた際に、高圧洗浄で網戸じたいが、すべての窓から飛んでいってしまった。

夫によると、ここに住んで七年が経つという。でも、体感的には十年以上いるような気がする。それも住んでいるというより、住みついているという気が。じっさい、もともと夫がひとり暮らししていたところに、わたしが住みついたのだ。古いアパートの内側は、とても器用な夫の手によって、暮らしやすいように変えられてきたけれど、自分はいつも受け身だった。それが、やっと能動的に、暮らしているという気持ちになってきた。それもこの一週間くらいで。先週、わたしはまず猛然と、あかずの窓をふきはじめた。

きっかけは本だ。あこがれだった、壁じゅうが本棚という部屋を手にいれたのに、気がつけば本棚に本が入らなくなってしまって久しい。机のまわりに本の塔が築かれて(何なら椅子の背にもある)、ほとんどそこから読んでいる。たまに本棚から手にとると、埃や日焼け、場所によってはカビてしまっているのが気になっていた。本には陽の光がよくないと思って、窓につけたブラインド(これも十年まえくらいにあこがれていた木製のもの)も、しめっぱなしだったのに、あまり意味がなかったこと。そもそも、結露のひどい角部屋の壁際に、本棚を設置していたことがよくなかったのか?等かんがえだして(壁の状態は言わずもがな……)、たくさんある本をまえに何だかむなしいような、悲しい気持ちになってしまった。

〈その人が、どれくらいの貧乏だったかを知りたいときは、育った家の窓の数を尋ねるのがてっとりばやい〉

「文學界」に発表された、川上未映子の新作『夏物語』はこんな書き出しから始まる。

〈貧乏の世界の住人には、大きな窓とか立派な窓という考えじたいが存在しない。彼らにとって窓っていうのは、ぎちぎちにならべられたタンスとかカラーボックスの後ろにあるんだろうけど、開いてるのなんか見たこともない黒ずんだガラスの板のこと〉

引用してみると容赦ない。けれど、わたしにはこれが自室の窓のことに、思えてならなかった。あけられないブラインドの奥には、そんなガラスの板があるにちがいなかった。だから貧乏、といいたいわけではない。それでも自分にとって、そのことは昔からそう遠い存在ではないと感じていた。さいきん読んでいた本(チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』)も、貧困というテーマが色濃くて、苦しいくらいだった。作品と作家は切り離して評するものと、頭ではわかっているつもりでも、未映子さんじしんが貧困を知っているひとであり、だからこそ信頼できる、近しさを感じるところがわたしにはある。(夏物語のつづきが楽しみ。といっても、二月がすごいスピードで過ぎてしまったので、もうすぐつづきが読めてしまう)

本棚は夫が作ってくれた。相談した結果、本棚は作りなおされ、配置をすべて変えることになった。わたしの部屋が整うことで、パズルのピースが合わさるように、ほかの部屋の問題もよくなるという。ブラインドを外すことになり、見て見ぬふりをしていた窓を見た。見てしまうと、もうきれいにするしかなかった。

そして、今日ついに夫によって網戸がつけられた(ほんとに器用!)。窓から見える生垣が、何の植物なのかもいまだによく知らない。ちなみにわたしは花粉症なので、窓をあけているとやはり目と鼻がぐしゅぐしゅしてくるのだった。それでも、それでも、うれしい。

2件のコメント

  1. 読んでいてこちらも開け放たれるような感覚がしました。ありがとうございます。

    1. 睡眠さま
      ここ数日、窓のことばかり考えていました……。うれしいお言葉をいただき、こちらこそありがとうございます。

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