連休あけ、すっかり日常

連休あけ、すっかり日常に戻って、外にでるのは気がすんだという気持ち(もともと外にでて、話題のスポットなどへ行くよりも、家でずっと本を読んでいたいタイプだった)。やっと家のことをしようという気になる。娘にも向かっていなかったな、という反省もあった。さっそく料理だけしていたら、あっという間に、いちにちが終わってしまってびっくりした。わらえてくるほど洗濯などの家事がおわらず(そのまえに娘は朝ごはんを二時間かけて食べていたりする)、いつまでも公園に出かけられない日や、背中と胃が連動しているように痛くて、なにもする気がおこらない日もあった。気がつけば金曜日。

娘のてごわい夜泣きがつづいている。それで夜は寝てしまうようになった。以前までは、このまま放っておけば、いつかおさまってねむるだろうと思えたのだが、いまはそう思えない。言葉をどんどん覚え、感情を伝えることができるようになっている途上だからか、娘は夜泣きでも言葉で要望を伝え、気がすんでからしかぜったい寝ない、というかんじなのだ。それがてごわい。もちろん要望をすべて聞くわけではないし(ぶーぶーちゃん乗りたいは却下)、それをほかのことにすり替えていくのだけど、言葉が明瞭ではないので、まず何をいっているか解読しないといけないし、寝ぼけているのだから普段にもまして、不条理だ。

でもけっきょくは、味つけのしていない焼き海苔(おにぎりに巻いてあるものだから、ぎーちゃんと娘は呼ぶ)をわたすことに落ち着く。娘の好物で、なんとなく夜に与えても影響がすくなそうなもの、という妥協から与えはじめてしまったが、ぎーちゃんがこんなに重要なものになるとは、わたしも夫も思っていなかった。それをにぎりしめ眠ってくれることもあるけれど、食べはじめると、何枚も要求されてしまうのがつらい。だいたい三時から四時のあいだだろうか。わたしは寝起きにすぐうごくことができず、ほとんどは夫が対応することになるのだが、いちどもう限界となったとき、娘の枕元に何枚もの焼き海苔を、夫がばらまいていた。わたしは布団に横たわりながら、「不条理だなぁ…」と思っていた。朝起きたら、海苔は一枚もなかった。

今日は久しぶりに夜泣きすることなく、朝までねむってくれた。これでおわりだったらとか、あまり期待しちゃだめだと思うけど、うれしい。

病院のひらいている平日だけ、アレルギー治療のための炒り卵を食べている。いまのところ順調で、今朝は大さじ一杯。あーちゃんは卵じたい、とてもすきみたい。

天気はいいけれど、風がつめたくてつよい。いつもの公園で娘がとんぼを追いかけていた。「とんぼちゃんまって」、「こっちきて」。でも近くをとおり過ぎると、「ちょっとこわい」という。詩人の西尾勝彦さんをツイッターでフォローしているのだけれど、あるとき〈ちいさな子供は、自分で言葉を作っていきます。その行為は、詩そのものです〉というつぶやきと共に、「言祝ぎ」というタイトルの詩が紹介されていた(『光ったり眠ったりしているものたち』所収)。それは、西尾さんのお子さんが、二歳とすこしのときに話していた言葉を記した詩なのだが、それを読んでからむしょうに、あーちゃんの話す言葉をできるだけ全て、記録しておきたいという衝動にかられている。わたしの記憶が、追いつけなくなってしまうまえに。