10月17日(水)

鳥のさえずりがつねに聴こえてくるなか(つねにってすごいなぁと思いながら)、娘をひざに乗せてブランコをこぐ。

いつもの公園のブランコには背もたれがなく、娘は遊具にたいして慎重なのもあって、支えて乗せたり、わたしのひざのうえに乗せようとしても、「むり」と言って遠ざかる。今日はめずらしくひざに乗りたがった。ゆっくりこいでみると、楽しかったようで、何回もこげとせがまれる。すこし勢いをつけると、「ちょっとむり」と言って、降りたがる。下半身が…と思いながらも、何回もこいだ。ふたりでぎゃはぎゃは笑いあう。ふつふつと幸福感がわいてくる。

今日も公園には先客がいた。会うのは二度めの、サッカー少年あるいは青年だった。前に見かけたときは、あれ学校は?といっしゅん思ったのだったが、あらためて見ると年齢はよくわからない。やはりじろじろ見るのは憚られるのだけれど、壁にボールをひたすら蹴る、ドリブルするなど、彼はストイックに自分で決めたトレーニングをこなしているようだった。ボールがあーちゃんに飛んできたらどうするの?みたいな気持ちが、以前はわいてしまったのだが、このひと気のすくない公園が、ひと見知りのわたしにとってそうなように、彼にも必要な場所なのだ、と今日は思った。だから、奪ってはいけないのだと。ブランコは、ちょうど彼の使っていたスペースと真逆に位置していたから、うまく共存できたのでは、と思う。公園でまずボールあそびをしたかった娘は、そこはわたしのスペースだと言わんばかりに、「じゅんばん、じゅんばん」と、さいしょは彼に向かっていったのだけど。少年あるいは青年は、それもトレーニングの一部なのだろう、ダッシュしながら帰っていった。

日記ですら、すべてを書きたいという欲望が本当はあるけれど、書ききれることはないとわかってから、これは断片なのだと思うようになった。なんども日記に書いているが、日記をはじめてよかったと、本当に思っている。四ヶ月ほど書きつづけているのだが、そもそもはじめるまで、もじもじ、もやもや期間が何年もあった。たぶん、さいしょはツイッターのつぶやきから、はみでたことを書きたくなって、はじめたのもあった。ほぼ本名でやっているツイッターでは、すきにつぶやけないことがあると感じていた。

また、日記からはみだしそうなことがある。やっと創作、となりそうな気もするし(あ、でも日記を書いていて、その境界はあいまいでいいと思ったのだった。日記、小説、エッセイ、その境界がよくわからない文章)、もっともっと瑣末なことを書きたい気もする。ここでそれをやればいいとも思うが、さいきん登録したnoteに興味をもちはじめた(スマホで投稿できない!と、むくれたつぶやきをツイッターでしてしまい、アプリの存在を教えてもらった。やさしい…)。そして、音声配信にも興味があって、それをなぜか夫としてみたくて、まだちょっと、いやかなり、もじもじしている。夫をくどいているが、たぶん意味わからんなぁと思われていそう(話し相手がほしいのと、岐阜弁で会話したいのだ)。自分でもこの欲望が何なのかよくわからない。ちょっと何かが、過剰なのだろうか。妄想だけでもちょっと楽しい。