10月7日(日)

夜の街を、いつまでも、ふらふらとしていたかった。昼まには、きゃっきゃとたわむれる娘と夫を見ていて、このふたりをいつまでも見ていられる、どこにもいかなくても、ただ家にいるだけでいいかもしれないと思っていたのに。でもどちらも自分。

歩きすぎて、足の甲には、ダンスコの跡がくっきり赤くついていた。出かけるときによくつけている、金の小さな輪っかのイヤリングをつけたまま、お風呂に入ってしまったことを、洗髪していて気づく。そのときすでに片いっぽうがなくて、探してみても見つからない。

あんたには自分ってものがないの? 彼女は当然言うだろう。あんたはデイナなの? 自分が誰だかわかってんの? わかりません、わたしは半泣きで言う。わからないんです。

-『最初の悪い男』ミランダ・ジュライ 岸本佐知子訳(新潮クレストブックス)

やっと行けた星屑珈琲で、ミランダ・ジュライの新作を読みながら、深煎りのコーヒーを飲んだ。座った席のちかくには、わたしのすきなハン・ガンの『ギリシャ語の時間』が置いてあって、うれしくなった。静謐な空間のなか、本はとんでもない展開を迎えだして、え、ちょっと、待って、と心のなかではうろたえていた。帰りの電車でも夢中で読んだ。

そのまえはLitirにいたのだった。こちらも念願がかなった。今夜は久しぶりに読書会に参加したのだ(これまでLitirさんで開催された読書会にしか、わたしは参加したことがないのだけど)。課題本はアフリカ文学、エイモス・チュツオーラの『やし酒飲み』(岩波文庫)。五年ほどまえに、いちど読んだことのある作品だった。

わたしは、十になった子供の頃から、やし酒飲みだった。わたしの生活は、やし酒を飲むこと以外には何もすることのない毎日でした。

そのときは、この書き出しを読んだだけで、興奮した。いままでに読んだことのない本だと思ったから。本書を手にとったきっかけは、書評の教室に通い始めたばかりの頃、そこで出会った女の子に、すすめられたからだった。感動を伝えると、彼女はまたひとつ教えてくれたのだが、そちらはまだ読めていない(ちなみに、小田仁二郎の「鯉の巴」という作品。アンソロジー『新・ちくま文学の森』の「奇想天外」という巻に収録されている。読書会では鶴見俊輔の、と言ってしまったが、それはこの本の編者だった)。元気かな、とときどき彼女を思い出す。またおもしろい本を教えてほしい。

荒唐無稽な冒険譚が、書き出しからもわかるように、「だ・である」と「です・ます」が混ざった文体で語られていく。再読では、主人公が大変なめにたくさん遭うというところで、ヴォルテールの『カンディード』をすこし思い起こした。読書会の参加者は店主をのぞいて、すべて女性。わたしは文体だけでも、この本がすきと言えてしまうのだが、それでも初読のときよりは冷静な気持ち、これでもかとつづくエピソードに、ちょっとお腹いっぱいなところも、いなめなかった。さてみなさんはどうなのだろう、と思っていたら、わりと評価は低めであった。でも会はとても和気あいあいとしていたし、自分とはちがう視点を知ることは、やはり楽しい。ひとりになって思ったことは、わたしは『やし酒飲み』が、あるいは『やし酒飲み』のような、本のある世界のほうがいいな、ということだ。そのほうが安心して、息ができるような気がする。