2月10日(日)

わたしは言葉をお守りみたいにたずさえて生きている。そう思ったのは、「She is」に掲載されたきくちゆみこさんのインタビュー(https://sheishere.jp/interview/201901-yumikokikuchi/)で、〈自分がただここにいるだけで、勝手に居場所になってしまっている〉という文章を読んでからだ。また、同サイトに載っているエッセイ内にも、こんなゆみこさんの言葉がある。

ねえ、わたしが生きてるとここはどんな場所になる?あなただったら、どうかな?

昨年から居場所がほしいと、切実に思っていた気がする。もともと、どこかに属すことも、おおくのひとと居ることも苦手だった。なので、自分で場所をつくろうとしたのが、この日記を書いているブログでもあった。でも、その言葉と出会って、「なあんだ、そうだったのか」という気持ちになった。生きてるだけで、もう場所なんだ。それは安心感というか、だいじょうぶという気持ち。自分にとって、生きてるというものの中身には、読んで書くということが含まれているけれど。いくばくかあった焦りとか、肩に入っていた力みがなくなって、何だか日記の書きかたまで忘れてしまっていた。

今日は『ヒロインズ』の読書会に参加するため三島へ行くはずだった。夫の持病である腰痛が悪化して、娘の抱っこもままならず、中止した。自分の体調もどこかすっきりしなくて、ひとりで行くには力不足でもあった。あんなに綿密に計画をたててくれ、シュミレーションしていた夫……彼の頭の中ではすでに一回、三島へ行ってきたらしい。

ヒロインズzineの寄稿文に、フェミニズムをもっと勉強したいことや、ヒロインズに関連する本を読みたいことなどをわたしは書いて、そのとおりに本を手に取っていたのだけれど、それらを途中で空にほおったような状態で(おわってしまったわけではないけれど)さいきんスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を、夢中で読みおえたところである。

寄稿文に書けなかったのだが、わたしはフィッツジェラルドを読んだことがなかった。ヒロインズ自体は、アメリカの近代文学に詳しくなくても読めるし、いろんな立場の読みを引きだせる本だと思う。でも、彼の作品を知らずして、わたしがフィッツジェラルドを糾弾したくなるのは、ちょっとちがうという気持ちがあった。そんなわたしの感想は、一面的でしかないかもしれない。それでも書こうと思わせてくれるのが、ヒロインズという本であると思うのだけれど……。わたしは村上春樹訳の『グレート・ギャツビー』を何年も前から持っていた。小説を書きたいと思っているのなら、名作といわれる文学を読んでなきゃだめだろう、という気持ちが自分にはずっとあって、ギャツビーもそんな内なる声にしたがい購入したのだと、ヒロインズを読んで気づいた。そう思って読んだ本はたくさんある。『ボヴァリー夫人』や『ジェーン・エア』もそうだった。

これはザンブレノに共感した部分でもあるのだけど、わたしは創作科などで学んだ経験がない。しかも、どこの国の文学も学びきれていないことが、ずっとコンプレックスとしてあった。そんな内なる声の圧から、なかなか手に取れなかったのだろうと自覚したことで、やっとそこから離れて読みたいと思えた。フィッツジェラルドが好きだという、ゆみこさんの寄稿文を読んで、その気持ちはさらに加速したのだった。自分では持ちえない視点で書かれた文章を読み、わたしもその視点からぐらんぐらんと心を揺り動かされ、引きさかれ……その感動はご本人にもお伝えしたのだけれど、ほんとうに読めてよかったと、つよく思ったのだ。そしていまは、フィッツジェラルドを読んでよかったとも思っている。そんな、自分にとってはじゅうぶんすぎる(だってずっと、ゆみこさんの作品のいち読者だったのだから)、嬉しい出会いをもたらしてくれたのが、ヒロインズという本だった。これまで参加したいくつかの読書会でも、自分とはちがう視点を知ることが、いちばん楽しいと思ってきたのだが、今日はどのような会だったのだろう。

ゆみこさんの作る私的文芸誌「ライアーズ 」7号を読んで知った、辻邦生と水村美苗(二十代前半くらいに、水村さんの小説をよく読んでいて、タイトルを見ただけで懐かしくて『うわぁ』と声がもれた)による往復書簡集『手紙、栞を添えて』をこのごろ読んでいる。もう最後の手紙にさしかかるところだが、すばらしい文学案内のような一冊だ。語られていることは重厚なのに、親密なかろやかさがあるのは、手紙という形式だからだろうか。また読みたい本がふえた。『嵐が丘』もドストエフスキーもマンも、自分の本棚にはある(スタンダールはない)。本は待ってくれているような気がする。わたしはひとの影響を受けすぎかもしれない、とも思うけれど、こうやって読みたい本がふえていくのは楽しいし、これまでも影響を受けて生きてきた。

三島では、娘を動物広場に連れていってあげたかった。なんとか動物を……という気持ちで、近場に新しくできた、ひとのあまりいないホームセンターのペットコーナーへはじめて行った。そこを「どうぶつえん!」と呼んで、よろこぶ娘をすこし不憫に思いつつ、閑散とした場所が好きなわたしは、それだけで満足してしまった。

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